安東みきえ。児童文学の作家です。
「頭のうちどころが悪かった熊の話」(2007年・理論社)を昨年読みました。
それまでは、名前さえ知らなかったのですが、
この作品が、たまたま子どもより大人に受けた(?)というか話題になりました。
かわいくて、動物が主人公なんだけど人間ぽかったり、
ブラックユーモアまではいかないんだけれど、ほんの少し厳しめの笑いがあって、
でも、ものすごく癒される感じがあって、
以来、この作家さんの新作を待っていました。
「まるまれアルマジロ! -卵からはじまる5つの話」(2009年・理論社)
5つの話は、すべて「卵があった。」ではじまります。
いちばんはじめの、オケラが木の上の卵を月と間違えてしまう、
「オケラのお月見」から、5つめの、「からっぽな卵があった。」ではじまる、
「心配性のコウノトリ」まで、それぞれの話でありながら、
きちんと最後に、卵、すなわち生命の誕生と死が連環する、
かなり感動ものの連作です。
最後のお話では、オケラが月と間違えた木の上の卵から孵った小鳥が、
天使に選ばれた「幸福を運ぶコウノトリ」になります。
そのコウノトリは、お話の最後で一羽のハゲタカと語り合います。
そのハゲタカは、3つめの話「ハゲタカの星」のヒナだったハゲタカの成長した姿。
「ハゲタカの星」もかなり泣けます。
ちなみに、あとの2つは「オオカミのおおきなかんちがい」と「まるまれアルマジロ!」
5つとも、ほんとうにいい話です。
安東みきえさんの文体は、過剰さがなく、すごくシンプルな中に、
乾いたユーモアというのか、軽みがあって、表現もさっぱりしていておもしろい。
でも、気がつくと、ボーボー涙が流れていたりします。
実は、それぞれの生きもの(嫌われものも)に、生きるということに、
愛情がたっぷり込められているのです。
最近は、このような動物を主人公にしたユーモラスなお話を書いていますが、
以前は純然たる(?)児童文学を書いていたようです。
2冊ほど読んでみました。
「天のシーソー」(2000年・理論社)
「夕暮れのマグノリア」(2007年・講談社)
この2冊にも共通しているのは、「生」というものに対しての深い想いです。
「天のシーソー」は10年近く前の作品なので、いわゆる児童文学、という感じ。
小学生のミオを主人公に、妹や近所のお姉さん、
同級生や弟みたいな男の子たちとの、ささいな出来事を通して、
なにげない日常の中で生まれるふとした想いを描いた連作です。
いわゆる児童文学と書きましたが、自分が持っている児童文学のイメージよりは、
やはり明らかに違っていて、まずなんといっても説教くささがないこと。
こどもたちは、いたずらもするし、まちがいもおかすけれど、
それが「教訓」という形では描かれてはいません。
子ども達が、近所に住む一人暮らしの老女を怖い魔女だと言って、
「ピンポン逃げ」をする話「マチンバ」では、最後にそのおばあさんが、
その子ども達のいたずらを、「子ども達が遊びに来てくれる」と喜んでいた、
ということがわかります。
読んでいる方は、思わず感動して涙していても、
本の中の子ども達は、もらったチョコレートを奪い合うだけです。
もうひとつの安東作品の特徴は、リアルに子ども達の世界を描いているようなのに、
どこかファンタジーな色合いがあることです。
また逆に言うと、ファンタジーとして描いていながら、リアルなメッセージが、
嫌味なく、説教くさくなく、感じられることです。
そのへんは、割と最近の作品である「夕暮れのマグノリア」に顕著ですが、
「天のシーソー」の中では、「針せんぼん」という作品に感じました。
これは、近所に住む幼い兄弟が、寒い冬の日にミオに会いにきます。
ところがミオには用事があったので明日会う約束をして帰してしまいます。
ところが、そのあとで、二人は少し遠いおばあさんの家に預けられていたのに、
ミオとの約束の日だったのを忘れず、わざわざ歩いてきていたことがわかります。
ミオは後悔して、二人のあとを追い、やがて遠くに幼い二人の影を見ます。
「ミオにはわかりはじめていた。きょうのふたりにはもう追いつけないことが。
ふたりはまた会いにきてくれるだろうし、またおなじようにミオをしたってくれるだろう。
でも、きょうのふたりには二度と会えない。
あの追い返してしまったふたりにはもう二度と会うことはできないのだ。」
読んでいる途中、会いに来た兄弟は実は幽霊じゃなかったのかと思って、
読みながら少し怖くなり、最後のくだりでは、逢魔がときに子どもがいなくなる、
というイメージと重なったり、かなり不思議な世界に誘われました。
そして、この「逢魔がとき」、すなわち「たそがれどき」に異界のものが現れる、
という、これをズバリ、テーマにした作品集が「夕暮れのマグノリア」です。
この連作は、中学生の灯子(とうこ!)を主人公に、それぞれが幽霊と出会うお話です。
断言してしまっていますが、そうなのです。
中学生の灯子をとりまく環境は、「フルーツバスケットのように」、
あるとき自分の座る椅子がなくなっている、でも順番が替われば、また座れる、
という、リアルで厳しい世界です。
「いじめ」というほどではないけれど、ある日突然、自分の座る椅子がなくなる。
そのとき、その子は表面は平然としていたとしても、
ほんとうは死にたいほどの孤独感、自分などいなくなればいい、
という自己否定にさいなまれています。
灯子も、自分など死んで石油になった方が、人をあたためられると思ったりします。
でも、灯子は思い直します。
「死んだあとにだれかをあたためたからって、今していることがチャラにはならない。
生まれてきた意味なんて、自分でみつけなきゃずるいんだ。」
5つのお話には、それぞれ「○○とのふしぎな○月」というサブタイトルがついています。
それぞれのお話に登場する「幽霊」は、「うらめしや~」の幽霊ではありません。
実は、みんな「がんばれ! がんばって生きろ!」と励ましてくれているのです。
「自分たちができなかったことを、生きて、してほしい!」という、
異界からのメッセージなのです。
たそがれどきは「逢魔がとき」、異界へ、死へ、弱い者達は誘われていきます。
大切な人を逝かせないため、逝ってしまったものと、生きているものが、
懸命に守ろうとする「命」。
安東作品にある、このメッセージが、いま、とても心にしみます。
「世界は目に見えているものだけでできているんじゃないってこと。」
なにかが、わたしたちを守ってくれている。
「光と闇の混ざる時間、生と死の境目がぼんやりするころのこと。」
安東みきえさん。すてきな作家さんとめぐり会えました。
次の作品が、ほんとうに楽しみです。
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