カテゴリー「読書」の14件の記事

2009年10月23日 (金)

The Ferret Chronicles 完結

「消えゆく運命にあった文明が一匹のたったひとつの行動によって

息を吹き返す物語」(リチャード・バック)

 

老年を迎えた、かつての世界的ベストセラー作家リチャード・バック。

「かもめのジョナサン」、誰でも知っていますよね。

でも、彼が新たに生み出した壮大な歴史物語(?)、

「フェレット物語」を知っている人は、たぶん、あまりいないんだろうな。

だって、昨年刊行がはじまったときには、たしかにハードカバーの、

きれいな装丁の単行本「フェレットの冒険」として、シリーズ最初の2作、

「海の救助隊」と「嵐の中のパイロット」を手にしたはずなのに、

今年刊行された3冊は、初めから文庫だった!

いかに最初の2冊が売れなかったかということでしょ。

たしかに、単にフェレットを主人公にした童話風の物語というのでもなく、

哲学っぽかったり、ファンタジーだったりと、一筋縄ではいかない、

妙な物語ではありました。

そもそも、リチャード・バックがペットのフェレットを見ていて思いついた、

というほのぼのとしたイメージで始まりながら、

今回のシリーズ5冊目の最終巻では、フェレットがどこから来たか、

という世界の始まりの物語になっていたり、戦争の記憶やら、ロケットやら、

とにかく予想を超える展開になっての完結だったりして、かなり戸惑い気味。

自分としては、擬人化されたフェレットのかわいらしさと、

第1作「海の救助隊」では海難救助隊、第2作「嵐のなかのパイロット」ではパイロット、

第3作「二匹は人気作家」では作家、第4作「大女優の恋」では映画女優と牧場主、

そして第5作「名探偵の大発見」では超能力を持った探偵というように、

フェレットがさまざまな職業において、「最高の正義」を発揮して、

成長していく姿が、まっとうに、すこぶる健全に描かれていて、

とてもすがすがしい気分で毎回楽しませてもらっていたわけです。

もちろん、そのように読んでいて全然OKだとは思うのですが、

とにかく第5作は、ちょっと難解、かなりの飛躍・・・。

でも、やっぱり、なんだか好きです、このシリーズ。

完結といわず、また密かに再開されることを祈っています。

でも文庫よりもさらに・・・、って携帯小説とかになったら正直嫌ですけど。

ま、そんなことにはならないでしょうけどね。

70歳を越えているらしいけど、がんばれリチャード・バック!

 

「フェレット物語」Ⅰ~Ⅴ(新潮文庫)

リチャード・バック著  法村里絵訳

 

 

| | コメント (0)

2009年10月 5日 (月)

フェレットのおことば

「頂上までのぼったら、もう山をくだる必要はない。

翼をひろげて、そのむこうに飛べばいい」

 

リチャード・バック著「フェレット物語Ⅳ 大女優の恋」より

 

| | コメント (0)

2009年7月12日 (日)

卵からはじまる、すごくいい話

安東みきえ。児童文学の作家です。

 

「頭のうちどころが悪かった熊の話」(2007年・理論社)を昨年読みました。

それまでは、名前さえ知らなかったのですが、

この作品が、たまたま子どもより大人に受けた(?)というか話題になりました。

かわいくて、動物が主人公なんだけど人間ぽかったり、

ブラックユーモアまではいかないんだけれど、ほんの少し厳しめの笑いがあって、

でも、ものすごく癒される感じがあって、

以来、この作家さんの新作を待っていました。

 

「まるまれアルマジロ! -卵からはじまる5つの話」(2009年・理論社)

 

5つの話は、すべて「卵があった。」ではじまります。

いちばんはじめの、オケラが木の上の卵を月と間違えてしまう、

「オケラのお月見」から、5つめの、「からっぽな卵があった。」ではじまる、

「心配性のコウノトリ」まで、それぞれの話でありながら、

きちんと最後に、卵、すなわち生命の誕生と死が連環する、

かなり感動ものの連作です。

最後のお話では、オケラが月と間違えた木の上の卵から孵った小鳥が、

天使に選ばれた「幸福を運ぶコウノトリ」になります。

そのコウノトリは、お話の最後で一羽のハゲタカと語り合います。

そのハゲタカは、3つめの話「ハゲタカの星」のヒナだったハゲタカの成長した姿。

「ハゲタカの星」もかなり泣けます。

ちなみに、あとの2つは「オオカミのおおきなかんちがい」と「まるまれアルマジロ!」

5つとも、ほんとうにいい話です。

 

安東みきえさんの文体は、過剰さがなく、すごくシンプルな中に、

乾いたユーモアというのか、軽みがあって、表現もさっぱりしていておもしろい。

でも、気がつくと、ボーボー涙が流れていたりします。

実は、それぞれの生きもの(嫌われものも)に、生きるということに、

愛情がたっぷり込められているのです。

最近は、このような動物を主人公にしたユーモラスなお話を書いていますが、

以前は純然たる(?)児童文学を書いていたようです。

2冊ほど読んでみました。

 

「天のシーソー」(2000年・理論社)

「夕暮れのマグノリア」(2007年・講談社)

 

この2冊にも共通しているのは、「生」というものに対しての深い想いです。

「天のシーソー」は10年近く前の作品なので、いわゆる児童文学、という感じ。

小学生のミオを主人公に、妹や近所のお姉さん、

同級生や弟みたいな男の子たちとの、ささいな出来事を通して、

なにげない日常の中で生まれるふとした想いを描いた連作です。

いわゆる児童文学と書きましたが、自分が持っている児童文学のイメージよりは、

やはり明らかに違っていて、まずなんといっても説教くささがないこと。

こどもたちは、いたずらもするし、まちがいもおかすけれど、

それが「教訓」という形では描かれてはいません。

子ども達が、近所に住む一人暮らしの老女を怖い魔女だと言って、

「ピンポン逃げ」をする話「マチンバ」では、最後にそのおばあさんが、

その子ども達のいたずらを、「子ども達が遊びに来てくれる」と喜んでいた、

ということがわかります。

読んでいる方は、思わず感動して涙していても、

本の中の子ども達は、もらったチョコレートを奪い合うだけです。

 

もうひとつの安東作品の特徴は、リアルに子ども達の世界を描いているようなのに、

どこかファンタジーな色合いがあることです。

また逆に言うと、ファンタジーとして描いていながら、リアルなメッセージが、

嫌味なく、説教くさくなく、感じられることです。

そのへんは、割と最近の作品である「夕暮れのマグノリア」に顕著ですが、

「天のシーソー」の中では、「針せんぼん」という作品に感じました。

これは、近所に住む幼い兄弟が、寒い冬の日にミオに会いにきます。

ところがミオには用事があったので明日会う約束をして帰してしまいます。

ところが、そのあとで、二人は少し遠いおばあさんの家に預けられていたのに、

ミオとの約束の日だったのを忘れず、わざわざ歩いてきていたことがわかります。

ミオは後悔して、二人のあとを追い、やがて遠くに幼い二人の影を見ます。

「ミオにはわかりはじめていた。きょうのふたりにはもう追いつけないことが。

ふたりはまた会いにきてくれるだろうし、またおなじようにミオをしたってくれるだろう。

でも、きょうのふたりには二度と会えない。

あの追い返してしまったふたりにはもう二度と会うことはできないのだ。」

読んでいる途中、会いに来た兄弟は実は幽霊じゃなかったのかと思って、

読みながら少し怖くなり、最後のくだりでは、逢魔がときに子どもがいなくなる、

というイメージと重なったり、かなり不思議な世界に誘われました。

そして、この「逢魔がとき」、すなわち「たそがれどき」に異界のものが現れる、

という、これをズバリ、テーマにした作品集が「夕暮れのマグノリア」です。

この連作は、中学生の灯子(とうこ!)を主人公に、それぞれが幽霊と出会うお話です。

断言してしまっていますが、そうなのです。

 

中学生の灯子をとりまく環境は、「フルーツバスケットのように」、

あるとき自分の座る椅子がなくなっている、でも順番が替われば、また座れる、

という、リアルで厳しい世界です。

「いじめ」というほどではないけれど、ある日突然、自分の座る椅子がなくなる。

そのとき、その子は表面は平然としていたとしても、

ほんとうは死にたいほどの孤独感、自分などいなくなればいい、

という自己否定にさいなまれています。

灯子も、自分など死んで石油になった方が、人をあたためられると思ったりします。

でも、灯子は思い直します。

「死んだあとにだれかをあたためたからって、今していることがチャラにはならない。

生まれてきた意味なんて、自分でみつけなきゃずるいんだ。」

 

5つのお話には、それぞれ「○○とのふしぎな○月」というサブタイトルがついています。

それぞれのお話に登場する「幽霊」は、「うらめしや~」の幽霊ではありません。

実は、みんな「がんばれ! がんばって生きろ!」と励ましてくれているのです。

「自分たちができなかったことを、生きて、してほしい!」という、

異界からのメッセージなのです。

 

たそがれどきは「逢魔がとき」、異界へ、死へ、弱い者達は誘われていきます。

大切な人を逝かせないため、逝ってしまったものと、生きているものが、

懸命に守ろうとする「命」。

安東作品にある、このメッセージが、いま、とても心にしみます。

「世界は目に見えているものだけでできているんじゃないってこと。」

なにかが、わたしたちを守ってくれている。

「光と闇の混ざる時間、生と死の境目がぼんやりするころのこと。」

 

安東みきえさん。すてきな作家さんとめぐり会えました。

次の作品が、ほんとうに楽しみです。

 

 

| | コメント (0)

2009年7月 9日 (木)

王道ヒロインの波乱万丈物語

昔見たモノクロ映画、美女と野獣のような組み合わせだったけれど、

なんともドラマチックで、ロマンチックで、とても好きだった。

ジョーン・フォンテインのジェイン・エア、

そしてロチェスター様はオーソン・ウェルズだった!

懐かしさもあり、それからミュージカルで上演されると聞いて、

小尾芙佐訳「ジェイン・エア」(上下巻・光文社古典新訳文庫)を読んでみました。

 

「ジェイン・エア」は、19世紀のイギリスの女性作家シャーロット・ブロンテ作。

妹のエミリー・ブロンテは「嵐が丘」で有名ですが、

もう一人の妹アンとともに、ブロンテ三姉妹と呼ばれています。

で、牧師の娘だったシャーロットの自伝的作品とも言われる「ジェイン・エア」、

やっぱり古典は、それも不朽の名作とよばれる作品はおもしろい。

とにかく一時流行ったジェットコースター・ドラマとか昼の波乱万丈ドラマとか、

ハーレクインロマンスもの(読んでいないけど)が束になってかかっても、

かなわないくらいに、人生ドラマのすべてが盛り込まれ、あれよあれよというまに、

物語が展開していく、これぞヒロイン物語の王道。

しかも、そこは名作といわれるだけの、気品と美しさがあり、

なによりも物語好きにとって最高なのは、

ヒロインの信念ある生き方と、ハッピーエンド!

 

ヒロイン、ジェイン・エアは、映画では美女が演じていましたが、原作では、

ことあるごとに、「器量はよくないが・・」といわれる、やせっぽちで貧相なタイプ。

のちに大恋愛をするロチェスターも、オーソン・ウェルズが演じたくらいで、

精悍で男らしいけど、顔はね・・というタイプ。

そのあたりの、美男美女ではない恋愛も、けっこう新鮮でした。

ま、それは順を追って書くとして、ジェイン・エアです。

幼くして牧師だった両親を亡くし、叔父の家に引き取られるものの、

その叔父の死後は邪魔者扱い、今なら虐待といってもいいくらいの扱いを受け、

10歳で、厳格で、しかも劣悪な環境の寄宿学校に入れられてしまいます。

ところが、このヒロインは、そんな日々を送りながらも、けっして自分を卑下せず、

正直に自分の思ったことを相手にぶつけていくのです。

叔父の家をやっかいばらいされることになったときも、

自分を虐待し、嘘つき呼ばわりした叔母に、

「あなたがわたしにしたことを、わたしはけっして許さない。

あなたを叔母とは思わない」と縁切り宣言していくのです、たった10歳で。

叔母からジェインは嘘つきで悪い子だと洗脳された寄宿学校の校長に対しても、

屈することはなく、抵抗し、己の主張をし続けるジェイン。

ひもじさや、懲罰、そして疫病。

ついには寄宿学校の劣悪な環境が世間に伝えられるに及び、

校長は失墜、学校の環境も改善されていきます。

その学校で、8年間、最後の2年間は教師としてすごしたジェインは、

18歳にして新しい世界へ、たった一人で旅立ちます。

家庭教師として雇われたソーンフィールドの当主ロチェスターとの出会い、

その館に閉じ込められた彼の忌まわしい過去、

やがて熱烈に愛し合うようになった二人に訪れる別離と、

それぞれの新たな苦難、・・再会。

 

ジェイン・エアとエドワード・ロチェスターは、年の差20のカップルです。

ところが、これが、「ツンデレ」で「超ラブラブ」(古典をこんな表現でいいのか!)

胸がキュンとしちゃうような恋愛なんです。

途中、二人が別れ別れになってからの展開には、

天涯孤独のはずのジェインに、叔父の莫大な遺産が転がり込むと同時に、

野垂れ死に寸前で助けてくれたある家族が、実は従兄弟だったとわかるなど、

ちょっと都合よすぎるのでは、という部分もあるのですが、

まあ、これだけ苦労してきたんだから、いいかなと思ったり。

とにかく、最後の最後まで、自分の信念を、

そしてロチェスターへの愛をまっとうするジェイン・エア、あっぱれです。

みんながそれぞれに幸せな結末も、すばらしい。

 

あんまりおもしろかったので、チケット買ってしまいました。

ミュージカル「ジェーン・エア」(日生劇場)

ジェイン・エアは、松たか子ですって。想像できる。

 

 

| | コメント (0)

2009年6月17日 (水)

光源氏に八つ当たりしてみる

お金がないということは、悲しい。

心待ちにしていた村上春樹の新作を、未だに入手できていないのは、

売り切れで書店にないからではありません。

発売日前から、毎夜パソコンに向い、今日こそは予約を入れられるかと、

図書館のホームページを監視し続けながら、ようやく予約できたのは、

発売日の夕方、すでに予約件数は200件を越えていた!

別に、誰よりも早く読みたいとは思わないけれど、いったいいつ読めるのかと、

気が遠くなる。でも場所によっては、すでに千件近い予約があるらしいから、

まだましなのか。ていうか、そんなに読みたいのに買わないのかって話で。

以前は、春樹(いきなり呼び捨て)の新作は必ず買っていたのに。

今は、文庫になったら絶対買おうと思っていた中山可穂さまの『ケッヘル』さえ、

未だ買えていないほどに、はっきりいって金欠なのですよ。

(もちろん、もう既読ではありますよ)

なぜなのかは書くまでもなく、ご贔屓様の退団公演で使い果たし、

立て直す間もないままに、アイーダの先行販売に追いまくられ、

はっきりいって火の車です~。どうしよう。ほんとに。

はぁ~。

 

まあ、それはそれとして、読みたい本はいっぱいあります。

春樹のケースは特別として、だいたいは図書館でなんとかなるのですが、

ここのところは『源氏物語』を円地文子訳(新潮文庫・全6巻)でのんびりと読み進め、

4巻まで読み終えたところで、後の2巻が貸し出し中でストップ状態。

こういうところが、ちょっとつらいところではありますね。

ま、これはちょうどきり良く、紫の上が身まかり、嘆き悲しむ光源氏が、

現世に未練たらたらで出家もできないままに、

情けない中年男の無様さをさらしたあげく、

「雲隠」という題名だけの巻で終わるという、痛快さ!

なにが痛快って、題名だけのこの巻は、光源氏の死を暗示している、

と注釈にあるわけですから、もう、なんというか、紫式部、すごいです。

これだけ引っ張った、大主人公である、光のごとく美しく、

なにもかもが並ぶものがないほどに完璧と形容されつくした稀代のプレイボーイが、

その死をひとことも形容されないどころか、描写もされずに終わるのですから。

さすが、紫式部、いやはや、やはり女性なのですね。

でもこれを「報復」と読むのは、穿ちすぎなんでしょうか。

紫式部は、哀れすぎて書けなかっただけかも。それくらい惨めな最後でした。

なんて、よっぽど嫌いなんですね、自分。

だって、読めば読むほど腹立たしい男なんですもの~。

あまりに美しい訳文で、夢のような雅な世界で、情緒たっぷりで、

ついついうっとり読んじゃってますけど、こういう男は心底腹立たしい!

別にね、男であれ女であれ、恋多き人が嫌いってことではないんですよ。

あんなに好きだった想いが冷めていき、ほかの人を好きになってしまった、

っていうのはわかるんです。ていうか、しかたのないことだと思うし、

それの繰り返しの恋多き人は許せるんです(お前は何様か!)。

でもさあ、光源氏の場合はさあ、この女性が並ぶものなく最愛の人であるっていう、

紫の上がいるのに、(しかも、この姫は子どものときにさらわれるようにして、

光源氏のもとにきて、理想の女として育てられ、いつのまにか妻になっていたという、

光源氏のためだけに生きた、というより生かされていた、

実は、かなりかわいそうな女性なのです。カッコが長いな)

それをわかっているのに、ふらふらと他の女に気がいってしまい、

気持ち悪いくらいにしつこく口説き倒して、養女に懸想したり、

ひとの女に手を出しちゃったり、あげくは、紫の上が死にそうなときにさえ、

ほかの女のところに泊まっちゃったり、というサイテーの男です。

なんといっても自他共に認める最愛の女性を、結局幸せにできなかった男ですから。

紫式部も、この上なくすばらしい女性として描いた紫の上に、

子どもも持たせず、ほんとうに光源氏のためだけにあった女性として描き、

さみしく、不安な、満ち足りぬ思いの中で死なせてしまいます。

そして残された光源氏は、そういう思いの中で死なせてしまったことを悔いますが、

それでもなお、女(現世)には未練たらたらなところを描くほどに、

紫式部の光源氏に対する突き放し方は、辛らつであり、小気味いいほど。

 

あれあれ、なんだか怒りにまかせて、読了していない『源氏物語』のことばかり

語ってしまいましたが、そんなわけで、『源氏物語』も先を読めない、

春樹の新作も読めないという状況の中、

『英雄の書』(宮部みゆき)とか『テンペスト』(池上永一)とか読みました。

「物語」が好きなので、両方とも面白く読みましたが、ちょっとずつ不満もありました。

それを書き始めると、また長くなるので、気が向いたら書きます。

早く『源氏物語』の続きが読みたいな。

いよいよ薫とか匂宮とか、光源氏の子どもや孫達のお話になっていくのだと思います。

あっそうそう、3巻途中までだった『完訳 三国志』の方も、読み始めました。

 

しかし、これって、どういう記事なんでしょうね。

地位も名誉もお金も女にもことかかなかった光源氏でも幸せではなかったってこと?

何もなさすぎるのもどうかと思いますけどね。

ま、「八つ当たり」ってことですか。

 

 

 

| | コメント (0)

2009年5月26日 (火)

狂気を隠しているような笑い

絵の隅っこに描かれた、ちいさなものが気になってしまう。

いったい何がはじまろうとしてるんだろう、と思わせる。

そんな不思議な世界を描き出す画家、ミヒャエル・ゾーヴァ。

彼のことを知るのための二冊、

『ミヒャエル・ゾーヴァの世界』(2005年/講談社刊)

『ミシャエル・ゾーヴァの仕事』(2009年/講談社刊)を読んでみました。

 

先日、展覧会を観たときに、大きな絵の中にちいさな動物を描くこと、

その大小の対比にゾーヴァの何かしらのこだわりがあるのか、

ということを書きました。

その答えは、前者の本のほうにゾーヴァの言葉で載っていました。

ゾーヴァいわく、「はじめは何か物足りないなと思って」。

つまり、「遊び心」だったようです。

日常の当たり前の風景に、ちょこっとおかしなものを書き入れてみた。

そうしたら、「ちょっと面白かった」というわけ。

静かな農村風景、それだけみたら、ミレーか誰かの絵のようなのに、

隅っこのほうをよく見てみると、逃げ出したガチョウが一羽。

なんだかおかしい。それがゾーヴァの言う、

「ドラマ性というか、とくにユーモア、それも背後に狂気を隠しているような笑い」

ゾーヴァが風刺画を描く重要なテーマなのです。

たしかに、緑濃い木々に囲まれた池の中に飛び込む豚、

「ケーラーの豚」には、おかしさを通り越して、なにかが狂っているような、

妙な感じがあります。

豚ばかりみたいですが、テーブルの上のスープ皿に、

まるで泥んこ遊びするみたいに、ちいさな豚がいる「スープ豚」もしかり。

誰もがよく見知っている日常の風景。

それが不思議な感覚をもたらすとき、そこにはなにか、おかしなことが起きている。

ゾーヴァの絵の中には、そんな、おかしいのだけど、少しだけ怖いようなものが、

ひそんでいる気がします。

かわいいだけじゃすまない、そんなゾーヴァの絵の魅力。いや、魔力かな。

 

挿画を手がけた、『ちいさなちいさな王様』『日曜日はクマの名前』は、

ともに、アクセル・ハッセの作品に、絵をつけたもの。

かなり自由な発想で描かせてもらえたと、後者の本の中で説明しています。

アクセル・ハッセの作品自体が、風刺にもとれるけれど、

そのまま素直に読めば、楽しくて優しい物語。でも、やっぱりどこかおかしい。

そんな作風が、ゾーヴァの絵の作風とも合っているのだと思います。

ちいさな王様も“日曜日”という名前のクマのぬいぐるみも、

とってもかわいくて、いとおしいけれど、なんだかおかしい。

自分と同じくらいの大きさのグミベアーが大好物の王様、

パンツみたいに洗濯されて干されたことを嘆く“日曜日”、

ゾーヴァに描かれた彼らの姿には、どこか哀しいげな感じもあって、

よりいっそういとおしく感じます。

色彩とか、絵の質感も好きだなあ。

ゾーヴァは、『ミヒャエル・ゾーヴァの仕事』の最後に、こう言っています。

 

「絵を描く、それはなにも特別なことではないのだ。

生活の中で感じ、考えたものを表現する。すなわち、

それは僕が生きていることに他ならない。」

 

気に入らなかったり、失敗したと思ったら、

ゾーヴァは何度でも、その絵に上塗りして描き直していく。

生きていくこともそれと同じ。

描きなおせばいい、やりなおせばいい。

ゾーヴァの画家としての自然体の生き方が、そんなふうに言ってくれているよう。

心に染みます。

 

 

| | コメント (0)

2009年3月 2日 (月)

破滅的な情熱と生きる意味

年末に決めた読書計画のようなものを、着々と?進行中です。

年初から読み始めた「アンナ・カレーニナ」(トルストイ/望月哲男訳)

光文社古典新訳文庫全4巻を、本日やっと読み終えました。

同時に「完訳三国志」を読みながら、なおかつ短時間で読める小説類、

たとえば「乳と卵」(川上未映子著)とか「仏果を得ず」(三浦しをん)とか、

「どこから行っても遠い町」(川上弘美)とかを、つまみ読みしつつ、などという、

とんでもない読み方をしての、晴れて読了です。

ちなみに「完訳三国志」の方は、3巻の真ん中辺りで休止中。

(映画『レッド・クリフ』のクライマックス「赤壁の戦い」は読み終えています。)

 

トルストイの、そしてロシア文学の代表作である「アンナ・カレーニナ」は、

映画やドラマや宝塚の舞台にもなっていますが、宝塚版しか見ていません。

よって、そこで描かれていた“悲恋もの”というイメージには、

実は大いに疑いを抱いていました。よくも悪くも宝塚の作品ですからね。

読み初めて、まず驚いたことは、この小説には二人の主人公がいるということでした。

(なぜ驚いたかといえば、宝塚版では、その人物は完全な脇役ながら、

とても印象に残る、いわゆる「おいしい役」だったのです。

つまり、うれしい驚き。ちなみに初演では、立樹遥さんが演じていたので、

読んでる間中、リョーヴィンは立樹さんのイメージでした。)

そして、その二つの物語がそれぞれに語られ、あるときは重なり、そして最後は、

一見、まったく別の物語だったように語り終えられるのです。

 

言うまでもなく、主人公の一人は、アンナ・カレーニナです。

夫も子どももいる、誰からも好感をもたれるような魅力的なひとりの女性が、

家庭を捨てて愛人のもとに走り、社交界からもつまはじきにされ、

やがてはその愛人の愛さえも信じられなくなり、苦悩の末に鉄道自殺をはかる。

愛人の母親に、夫と愛人と二人の男性の人生をメチャクチャにした「破滅的な情熱」

と言われる、このドラマチックなヒロイン像は、お話としては面白く、

この時代(19世紀後半)の閉塞的な社会のことを思えば、哀れといっていいでしょう。

でも同情はできても、共感することはどうしてもできませんでした。

共感ということでは、もうひとりの主人公、地主貴族のリョーヴィンこそ、

わが主役でした。

 

リョーヴィンの話の中心は、彼の寄って立つところである“農業”や、

人からは変わり者といわれる彼の内面の悩み、農業や領民について、

結婚について、さらには善とは、死とは、そして生の意味・・、

そして彼は常に迷い、恐れ、それでも一歩一歩、自分の人生を歩いて行きます。

読者からは、退屈と思われるようなお話と、ブックガイドにもありましたが、

たしかに、アンナの波乱万丈な、情熱的な人生とは、真逆のストーリーです。

でも、だからこそ、そんなリョーヴィンだからこそ、共感し、彼とともに疑問を持ち、

悩み、たとえ明確な答えが出たとはいえなくても、「自分はこうして生きていくのだ」

という、強い意志表明で終わる、この小説の読後感は、アンナの生と死の悲壮感より、

大地にしっかりと足をつけ、父親となったリョーヴィンの、生きることの苦難もすべて、

受け入れて生きていくという、力強さに満たされます。

そして、ここで、この小説のふたつの物語、つまり表裏が一体となるという構造が、

見えてくるのです。

アンナの自滅と、リョーヴィンの再生。

ひたすら愛を求めて、他を省みずに己の情熱のままに生きながら、

自分も、愛する人の心も信じられなくなっていくアンナ。

不器用なまでに、ひとつひとつ壁に頭を打ちつけながら、愛を恐れ、

幸せを恐れながらも、己の心の中にあるものを信じることのできたリョーヴィン。

二人の運命は、生と死とに分かれていきました。

 

豊穣で厳しいロシアの大地と、華やかで空虚な貴族社会。

母性と愛にひきさかれていくアンナと、母性によって、

子どもを、そして夫(リョーヴィン)を包み込むキティ。

あるいは、アンナの死後、死に場所を求め、義勇兵として、

対トルコ戦の戦地に赴くアンナの愛人ヴロンスキーと、

愛国の名の下、トルコ人を殺しに行く戦争そのものに反対するリョーヴィン。

語り尽くせぬほどに、さまざまな問いを内包した壮大な人間ドラマ、

やはり一度読んだだけでは、手に負えないというのが実感ですが、

とりあえず、堪能しました。

ぜひ、時間を置いて、読み直してみたい小説です。

 

| | コメント (0)

2009年1月14日 (水)

幸せな子ども時代

お休み中に何冊かの本を読みました。

「ムーミン童話全集(全8巻+別巻1)」も、

最後の、別巻「小さなトロールと大きな洪水」(講談社刊)を読了。

別巻となっていますが、ムーミン童話として最初に書かれたお話です。

このお話には、ムーミンパパは最後にしか登場しません。

冒険好き、というか放浪癖なのか、ここではないどこかに行きたがる、

ムーミンパパは最初からそういうキャラだったんですね。

ムーミントロールとムーミンママは、パパを探して旅をしながら、

その後のお話にも登場するスニフと出会ったり、不思議な体験をし、

パパとも再会します。パパは、みんなと住むための家を建てていました。

そしてこのお話は、大きな洪水にあいながらも、壊れることなく、

無事に流れ着いた家で、その場所で、新しい生活を始めるところで終わります。

ここから、ムーミン谷でのたのしい暮らしが始まるのです。

破壊と再生、別れと出会い、孤独と自由、ムーミン童話には、

生きることの大変さややっかいさがほんのちょっぴり、

生きていることのたのしさがたっくさん詰まっています。

この「ムーミン童話全集」を読了した直後に、教育テレビのアンコール放送で、

作者であるトーベ・ヤンソンのミニ・ドキュメンタリーを見ました。

 

作者のトーベ・ヤンソンは、自身の「幸せな子ども時代」があったから、

この童話が生まれたのだといっています。

芸術家の父と母の愛に包まれ、フィンランドの自然とともに育まれたトーベは、

早くから芸術の才能を開花させ、画家として、作家として作品を残しました。

ムーミンは、弟と喧嘩した腹いせに、壁に書いた落書きがもとになったといいます。

以前に見た(たぶん今回とは別の)トーベ・ヤンソンのドキュメンタリーで、

小さな島で暮らす姿が印象的だったため、トーベは自然と孤独を愛する、

少し人間嫌いの人なのかなと思っていました。

でも実際は、彼女には、トゥーリッキというパートナーがいて、

その島、クルーブ・ハル(通称ヤンソン島)でも、30年も、夏の間二人で過ごし、

島を離れてからも、同じ建物に住んでいたそうです。

このあたりのことは、ドキュメンタリーではなく、

「ムーミン谷への旅」(講談社刊)という本に書かれてあります。

この本では「親友」とありますが、生涯のパートナーだったのは事実です。

ドキュメンタリーでは、トーベは晩年、“おしゃまさん”との暮らしを楽しみたいために、

ムーミンの創作活動をやめた、というような表現をしていました。

“おしゃまさん”とは、ムーミン童話に出てくるキャラクターであり、

そのモデルは、トゥーリッキです。

 

トゥーリッキ・ピエティラは、

「彫刻家として芸術家プロフェッサーの称号を国から与えられている」

(「ムーミン谷への旅」より)

というアート界の実力者で、トーベにとっては初めての親友であり、

おそらく、母親とは別の、最愛の女性だったのでしょうね。

二人は、共同で創作活動もしながら、島での暮らしを楽しみ、

トーベが死ぬまで、いっしょにいました(たぶん)。

ドキュメンタリーも本も、二人の関係については、あまり詳しく描かれていないので、

想像する部分が多いのですが、トゥーリッキ自身が島での暮らしを

映像化した作品があるそうなので、いつか機会があれば見たいものです。

もしかすると、昔見たドキュメンタリーがそれだったのかも。

 

実は、ムーミンのお話って、アニメだけで、ちゃんと読んでいなかった気がして、

今回読んでみたのですが、作者であるトーベ・ヤンソンの生き方にも、

魅力を感じました。また、トーベについて何か書けたらいいなと思っています。

最後に、「ムーミン童話全集」の中から、ムーミンママの素敵な言葉を。

 

「さあ、あしたもまた長い、いい日でしょうよ。

しかも、はじめからおわりまで おまえのものなのよ。

とても楽しいことじゃない!」

 

| | コメント (0)

2008年12月30日 (火)

2008年 読んだ本

今年も本はけっこう読んだ、と、思うのですが。

小説やエッセイ、旅や雑学の本とか、割と節操なく読み散らしている割りに、

思いつく本の題名が意外と少なくて(単に記憶力の問題か)、

心に残る本てそんなにないんだなというのが実感。

というより、来年からはメモとっておこうかな。

おまけに振り返ってみると、ベストセラーとか話題作、人気作家の新刊、

というのをほとんど読んでいない。

流行という点で乗ったといえるのは、古典文学の新訳ブームのみ。

これは、そこそこ読みました。

中でも、時間はかかったけれど、なんとか年内に読み終えて、

自分で自分を褒めてあげたいと思ったのが「カラマーゾフの兄弟」(全5巻)です。

ドストエフスキーを読むのなんて学生時代以来なわけでしたが、

さすがに読み応えあるし、長いとはいえ面白いですものね。

古典とか名作と言われる小説は、やはりストーリーはもちろん、時代背景、

キャラクター設定からして面白いのだと、改めて感じた一年でした。

そのほか、光文社古典新訳文庫で読んだのは、

「ドリアン・グレイの肖像」(オスカー・ワイルド)、「変身」(カフカ)

「恐るべき子どもたち」(ジャン・コクトー)「肉体の悪魔」(ラディゲ)などで、

村上春樹の新訳で読んだのが「ティファニーで朝食を」(カポーティ)、

ジョン・ケルアックの「オン・ザ・ロード」は新しく出た全集版で読み直しました。

このブログにも書いたフィッツジェラルドの「夜はやさし」も新訳でしたね。

新訳も出たけれどあえて旧訳で読んだのは「赤と黒」(スタンダール)、

旧訳の古めかしさが、古典文学の重量感たっぷりで、

じっくりと本を読む醍醐味を改めて実感させられ、

古典を読むことにはまったきっかけとなりました。

それと今は、「ムーミン童話全集」(トーベ・ヤンソン)を読んでいて、ようやく8巻、

あとは別巻を残すのみです。

改めて読んでみると、これ大人が読むべき本ですね。

孤独、自由、ここではないどこかへのあこがれ、喪失、不在、など、テーマが深いです。

  

日本の読み物では、なんといっても今年初めに、

武田百合子さんの「富士日記」(全3巻)を読み終えました。

もうすっかり百合子さん心酔者です。

古い本ですし、作者も故人ではありますが、

その天衣無縫なあり方が、日記の文章の中で、

ときに激しく、ときに優しく、生き生きと描かれている、

大切なものがいっぱい詰まった宝物のような本です。

 

あとは、日本人作家の新刊で読んだのは、

「サイゴン・タンゴ・カフェ」(中山可穂)、「風花」(川上弘美)

「宿屋めぐり」(町田康)くらいかな。

児童文学で、「頭のうちどころが悪かった熊の話」(安東きみえ)とか。

来年はもっと新作読むべきでしょうか。

でも、いま読みたいと思っているのは、「三国志」と「アンナ・カレーニナ」です。

また長いのを時間をかけて読みたい。けっこう癖になってるかも。

 

| | コメント (0)

2008年10月25日 (土)

ベルバラ発スカピン経由赤と黒

そろそろ「スカーレット ピンパーネル」のブログパーツをはずさなければ。

グズグズしていると、全国ツアーのベルバラ外伝が始まってしまいます。

というわけで、スカピンの総括をしていないような気がしつつも、

いったん区切りをつけるための、このタイトル。

しかもカテゴリーは「読書」です。

 

宝塚歌劇において、フランス革命というのは財産的題材です。

言うまでもなく「ベルサイユのバラ」という代表的作品、

そして今回の「スカーレット・ピンパーネル」。

そしてベルバラでは主要3役を演じたことがあり、

スカピンでもその時代に生きた、安蘭けいこと、とうこさんは、

念願だった役、「赤と黒」のジュリアン・ソレルでは断頭台の露と消えたのです。

しかもスカピンの次の作品が、またまたベルバラ、しかも外伝だそうで。

フランス革命とはとっても縁があったというわけです。そこで、

 

安達正勝著『物語 フランス革命』(中公新書)を読んでみました。

フランス革命の発端とされるバスチーユ陥落からナポレオン戴冠までをまとめた、

かなりわかりやすいフランス革命史です。

整理すると、こういうことになります。

 

1789年7月14日 バスチーユ陥落

 ※「ベルサイユのバラ」では、ここでオスカルとアンドレが戦死。

1793年 ルイ16世、マリー・アントワネット、ギロチンにより処刑

  ※「ベルサイユのバラ」では、フェルゼンが救出に向うが叶わず。

1794年 ロベスピエールらによる恐怖政治が頂点に

 ※「スカーレット ピンパーネル」では、ピンパーネル団が貴族達を救出

1799年 ナポレオン政権掌握(革命の終息)

 

つまり、「スカーレット ピンパーネル」の舞台は、フランス革命が始まって5年後、

革命は約10年間で終息しているというわけです。

フランス革命は、言わずと知れた「人は生まれや身分で差別されてはいけない、

人はみな平等であるべきだ」という、人権宣言であり、

国は国民のものであるという「国民主権」を確立させた、まさに画期的な革命です。

しかし、それが正しく確立される過程において、多くの犠牲を生んだ。

行過ぎた思想、やりすぎた政策は、恐怖政治を出現させてしまうのです。

この本の中で、印象的だったことの一つは、ギロチンの誕生秘話です。

ギロチンは、ルイ16世やマリー・アントワネットをはじめ、ロベスピエールも、

ダントンやサン・ジュストも、貴族も革命家もひっくるめて、

一日に50人も60人もの命を奪った処刑道具です。

パーシーがショーブランに「裏町のドブでさえ血のにおいがする」と言ったのも、

誇張とはいえない状況だったでしょう。

そんなギロチンですが、それまでの処刑方法があまりに残酷だったため、

人道的処刑方法として、瞬時に死に至る道具として考えられたというのです。

しかも、ギロチンの刃を斜めにすることで、

失敗なく即死させられるとアドバイスしたのは、

なんと、錠前作りを趣味としていたルイ16世だったのです。

そして、このギロチンによる処刑に嫌気がさし、死刑廃止を唱えたのは、

ほかでもない、死刑執行人サンソンでしたが、

実際に死刑が廃止されたのは、1981年のこと。

フランス革命後、一介の軍人から皇帝にまで上り詰めたナポレオンを敬愛する、

若きジュリアン・ソレルの命を絶ったのも、このギロチンでした。

 

もうひとつ、とても印象的な、というより、胸が痛くなるような話。

それは、王太子ルイ・シャルルの哀れな最後です。

ルイ・シャルルが、家族から離され、靴屋のシモンに預けられたのは、

宝塚版「スカーレット ピンパーネル」と同じ、というより、ここまでは、

史実どおりに描かれていたわけです。

ところが、実際のお話は、スカピンのようには行きませんでした。

1974年以降、独房のようなところに入れられたルイ・シャルルは、

食事だけ与えられ、光も入らない部屋で誰とも話すことなく放置されたのです。

ロベスピエールらが失脚、恐怖政治が終わるテルミドールのクーデターの後、

こじ開けられた部屋にいたルイ・シャルルは、汚物にまみれ、

白痴同然の有様だったというのです。

肉体的にも精神的にもそこなわれた、わずか9歳の少年は、

一時は快方に向うも、様態が急変、明るい未来も、

パーシーが言った「幸せになる権利」も得られないまま、小さな命を散らします。

このあまりにもむごい結末に、死んだのは身代わりの少年だったなどと、

ルイ・シャルルはどこかで生きている、という幻想を人々にいだかせたとしても、

それは無理ないことだったでしょう。

現に、宝塚版「スカーレット ピンパーネル」においても、

ルイ・シャルルは正義の味方スカーレット・ピンパーネルに助けられ、

イギリスに渡ることになるのです。

スカピンのストーリーのなかでも、核となるこのエピソードは、

やはり人々のそうであってほしかったという夢であり、

そして幼くして無残に命を失った少年への愛惜の情を、

揺さぶらずにはおかないのです。

 

さて、全国ツアー「外伝ベルサイユのバラ~ベルナール編」では、

革命側の人間であるベルナールが主人公になります。

ベルナールはオスカルに影響を与える人物ですが、

革命の時代を生きた人間として、どんな側面で描かれるのか、

とても興味があります。

ツアーが始まる前には、もう一度、この本を読み返してみたいと思います。

 

| | コメント (0)

2008年10月13日 (月)

サイゴン・タンゴ・カフェへ(その2)

異性とであれ、同性とであれ、理想的な愛の成就は、

ともに年老い、ともに死すということなのでしょうか。

中山可穂さんの小説の中に、しばしば登場する愛し合ったものたちの老いの姿。

ご自分の未来を見据えているのか、そこに究極の愛を見出しているのか、

そのあたりの、妙な生々しさが、

ときに可穂さんへの不満とも失望とも感じたことがありました。

正直に言って、「サイゴン・タンゴ・カフェ」を最初に読んだときは、

主人公の恋愛が、作家と編集者であること、

そして、老いと死が、かなり生々しく描かれていたことに、

弱冠の嫌悪感がありました。

ですが、二度目に読んだときには、もう、なんだかせつなくてせつなくて、

泣けて泣けて仕方がありませんでした。

編集者の作家への盲目的な愛が、究極の愛に昇華していく、

そんな、あまりにも作家である可穂さん寄りでありすぎる設定ながら、

これこそ中山可穂イリュージョンなのだという、魔術にどっぷりはまりこみ、

魂わしづかみ、ぐるんぐるんと揺さぶられちゃった感じです。

(なんという表現!)

とにかく、冒頭の描写が、すばらしい。

読者は、幻のようなサイゴン・タンゴ・カフェへの迷路に誘い込まれてしまいます。

 

「サイゴン・タンゴ・カフェは

ガイドブックにもホーチミン市の地図にも載っていない。」

 

若き女性編集者が、伝説の作家の消息を追って、ベトナムへ。

ハノイの迷路のような旧市街の路地の奥にある店で、初老のマダムと出会う。

タンゴをこよなく愛するそのマダムこそ、伝説の作家その人だった。

タンゴの手ほどきを受けながら、編集者は、作家の愛の物語を聞くことになる。

しかし、その話もまた、作家の書く小説のようであり、

真実は、語られることはない。

そして真実は、最後の最後に、幻のように一瞬だけ、その姿を見せる。

 

サイゴン・タンゴ・カフェ、

それは、偶然にしかたどり着くことのできない幻のような店。

 

ひとの人生も、愛も、偶然にしか存在し得ない、幻のような一瞬の光。

だからこそ、その一瞬が、せつないほどにいとおしい。

 

恋愛小説家、中山可穂健在です。

 

| | コメント (0)

サイゴン・タンゴ・カフェへ(その1)

いまさら、なのですが、そろそろ宿題にとりかからねば。

 

中山可穂さんの最新作『サイゴン・タンゴ・カフェ』は、

今年買った唯一の単行本です。

文庫や雑誌以外は図書館ですませるようになっているので、これは異例のこと。

マイ手帖には、2月22日に「発売日」とあり、

3月1日に、「サイン会」と書かれていました。

サイン会には行けなかったので、その前に購入したのだと思います。

 

雑誌「野生時代」に掲載された5作品をまとめた、短編集。

『ケッヘル』以来、2年ぶりの単行本です。

こつこつと、搾り出すように書き上げた短編4作と、中山ワールド復活の中篇1作。

すべての作品のキーワードというかテーマは、「タンゴ」です。

うち3作のタイトルは、ピアソラの曲から引用されています。

「現実との三分間」「フーガと神秘」「ドブレAの悲しみ」

ほかに「バンドネオンを弾く女」

そして、表題作「サイゴン・タンゴ・カフェ」

 

可穂さんの作品は、好き嫌いがわかれると思います。

基本、女性同士の恋愛小説なので、ひとりよがりだとか、

男性が描けないとか、自分のことしか書けない、とか言われているようですね。

とくに今回のような短編集の場合は、そんな欠点があらわになるのも確かです。

長編の場合は、まさに骨身をけずって書かれているような感じなので、

ちょっとのアラなら気にならないぐらい、そのパッションに負けちゃっています。

それが、中山可穂イリュージョン・・なのでしょうか。

 

今回の作品で、後味が悪いなと思ったのは、

「現実との三分間」「フーガと神秘」「バンドネオンを弾く女」の3作です。

それぞれ結末は明るい方向へと行くのですが、テーマの選び方というか、

人物の気持ちのもって行き方に、居心地の悪さを感じました。

短編の場合、本来の作風、女性同士の恋愛以外のものを書こうとする傾向があり、

それは、もちろん作家ですから、いろいろなアプローチはあってしかるべきです。

しかし、その場合の多くは、「実感」より「想像」が何割増しかで多くなる。

小説は想像の産物です。でも、人の心、心理を主とする小説の場合、

実感のせつなさより、絵空事のうそくささが勝ってしまうのです。

(可穂さんの短編の場合は、です。)

そして、これはよく言われるとおりなんですが、

この3作品で描かれる男性が、ほんとうに薄っぺらい嫌な男なんです。

細かく書くのはあえて控えますが、

「バンドネオンを弾く女」の愛人を作った夫の名前が「範平(のりへい)」ですよ!

手抜き加減にも、ほどがあります。

ほんとうに、わかりやすい方です。

 

この3作に比して、ここちよく、楽しく読めたのが「ドブレAの悲しみ」でした。

人の生まれ変わりである猫を語り部とした物語で、

最後の落ちなどは、猫好きの可穂さん、自分で書きながら、

さぞご満悦だったろうと、想像できます。

とても美しい文章があって、文学的というより、感傷過多ではあるのですが、

こういう文章が好きな人たちが、中山可穂イリュージョンに、

はまってしまうのだろうなと思います。(自分です)

 

「未来永劫、かなわなくてもかまいはしない。

魂を奪われても、わたしは何度でも生まれ変わって会いに来る。

たとえあなたに気づかれなくても、

たとえわたし自身にさえわからなくても、

必ずあなたのそばにいて、いつもいつまでもあなたを見ている。」

 

また長くなってしまいました。

表題作「サイゴン・タンゴ・カフェ」については、改めて。

 

| | コメント (0)

2008年7月21日 (月)

夜はやさし

F・スコット・フィッツジェラルドの『夜はやさし』を、ようやく読み終えました。

森慎一郎氏の新訳で、村上春樹氏による解説まで含め、564頁。やれやれ。
かなり昔、この小説を読んだときは、文庫本で2冊組をセットで販売していたという記憶があります。

訳の違いなどは、あまりに昔なのでまるで覚えておらず、ストーリー展開が、読み進むうちに、ああそうだった、と思い至るくらいでした。
精神科医のディックと、実父との関係によって精神を病んだ女性ニコル、二人は結婚し、ニコルの持つ財力を背景に、遊興の日々を送ることになります。

フィッツジェラルドといえば、やはり『グレート・ギャツビー』。

こちらも割と最近、村上春樹の新訳で読み直しましたが、というより、この小説は大好きなので、けっこう何度も読み返しています。

こちらは、無駄なくきりりとまとめられた感のある、美しい小説だと思います。

一方『夜はやさし』の方は、弱冠、無駄に感じたり、冗長に感じる部分もあるのですが、『グレート・ギャツビー』とも共通する、失われていくもの、堕ちゆくものへの、愛惜というか、悲しみが胸に残ります。
時代の寵児から、あっというまに堕ちていってしまい、失意のままこの世を去ったフィッツジェラルドの自己投影という点では、『夜はやさし』が、彼の代表作になるべきだったのでしょう。

ただこの小説に関しては、出版当時あまり評判がよくなく、フッツジェラルド自身があとになって改訂を指示したため、決定版がないという中途半端なことになってしまいました。

今回の新訳は、最初に出版されたものをもとにしているそうです。

フィッツジェラルドの意志とは違うのかもしれませんが、こちらでよかったのではないかと、解説を読んで思いました。

 
新訳にあたっても、邦題は『夜はやさし』でしたね。

すばらしい題名だと思います。

原題は『Tender is the Night』。

イギリスの詩人キーツの詩からとっています。

 

「すでにおまえとともにあり! 夜はやさし・・・だがここに光はない」

 
英語力はまるでないのですが、これを『夜はやさし』とできる日本語の美しさに脱帽です。

味わいのある、すばらしいタイトルです。

| | コメント (0)

2008年7月 1日 (火)

はじまりは、ナチュラル・ウーマン

順々にカテゴリーを増やしていこうと思っています。

今日は「読書」のカテゴリーを立てようと、まずは中山可穂さんかなと思ったのですが、導入篇として「好きな女性作家」について書こうと思います。

ということで、現時点からさかのぼってみることにしました。

いま現在、もっとも新作を待ち遠しく思う女性の作家は中山可穂さんです。

可穂さんは今年2月に新作『サイゴン・タンゴ・カフェ』を出したばかり。

シェーン来日について書いたときにちょっと触れましたが、新刊発売記念のサイン会には、ほんとうに行きたかったのです。

可穂さん熱がマックスだったころのことです。

なぜって、中山可穂という作家を、昨年はじめて知ったのですから。

遅い、遅すぎる! いったい今まで何を読んできたのかって感じですよね。

で、なぜ、そんなにも遅ればせながら可穂さんの小説を読むことになったのか。

それは昨年、たぶん、それまではいちばん敬愛していた女性の小説家である、松浦理英子さんの、ほんとうに久しぶりの長編小説『犬身』が発表されたからです。

松浦さんといえば『ナチュラル・ウーマン』。

女性同士の恋愛を書く作家の代表のような位置づけにありましたが、『親指Pの修行時代』など、稀代のストーリーテラーであるジョン・アーヴィングを思わせる作風で、寡作の人ではありますが、発表されたものはいずれも完璧なものと思えました。

で、今回久々に松浦ワールドに触れ、この人はほんとうにすごい!と感嘆。

ネットでいろいろ検索していたときに、「中山可穂」という作家のことを知ったのです。

最初に山本周五郎賞を受賞したという『白い薔薇の淵まで』を読みました。

心底、驚きました。こんな小説があったこと、それを知らずに来てしまっていたこと。

女性同士の性愛描写にも衝撃を受けましたが、その恋愛感情の濃厚さ、切実さ、身を切るような恋愛というものを、たぶん身を切るような想いで書いていると思わせる作家の存在にも、心打たれました。

それから、読むことのできるものは、すべて読みました。

『猫背の王子』『天使の骨』』サクラダ・ファミリア』『マラケシュ心中』『ジゴロ』。

そして大長編『ケッヘル』には、新たな可能性を確かに感じました。

『ケッヘル』を読んだときには、ジョン・アーヴィングの、これまた久々の新作『また会う日まで』を読んだばかりだったのですが、その作品に匹敵する面白さだと思いました。

ジョン・アーヴィングや松浦さんの小説に比べれば、はっきり言って、かなり荒削りで、情熱だけで押し捲っている感じがあり、これはどうなのだろう・・という部分が多々あります。

それでもなお、圧倒的な何かに魂をつかまれるような、そんな作品なのです。

 

おっと、中山可穂さんの小説については改めて書く予定でした。

今日のところは、このくらいにしておきます。

 

本題に戻りますが、松浦さん、中山さん以外では、川上弘美さんが好きでした。

でも最新作の『風花』は嫌いです。主人公も、とくにその夫のキャラが大嫌いだからです。

川上さんの、なんとなくホワンとした感じの登場人物や、文章が大好きでした。

今回、文章は川上さんだけど、登場人物に共感できないという作品に当り、

自分は、登場人物に共感できるか、好きか嫌いかで作品に対する好悪が分かれるのだと、よ~くわかりました。

もちろん、いまでも好きな作家であることには変わりはありません。

川上さんのエッセイは、なんともいえない心地よさがあります。

エッセイといえば、三浦しをんさんも好きです。とにかくおもしろい。

でも、小説はあまりおもしろくない。まだ2作しか読んでいないのですが。

 

それから、故人には、心から敬愛する女性の作家がいます。

『富士日記』の武田百合子さんです。

武田百合子さんについては、ぜひそのうち語りたいと思っています。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

The L Word | その他の舞台 | 安蘭けい | 宝塚 | 展覧会 | 映画 | 読書