狂気を隠しているような笑い
絵の隅っこに描かれた、ちいさなものが気になってしまう。
いったい何がはじまろうとしてるんだろう、と思わせる。
そんな不思議な世界を描き出す画家、ミヒャエル・ゾーヴァ。
彼のことを知るのための二冊、
『ミヒャエル・ゾーヴァの世界』(2005年/講談社刊)
『ミシャエル・ゾーヴァの仕事』(2009年/講談社刊)を読んでみました。
先日、展覧会を観たときに、大きな絵の中にちいさな動物を描くこと、
その大小の対比にゾーヴァの何かしらのこだわりがあるのか、
ということを書きました。
その答えは、前者の本のほうにゾーヴァの言葉で載っていました。
ゾーヴァいわく、「はじめは何か物足りないなと思って」。
つまり、「遊び心」だったようです。
日常の当たり前の風景に、ちょこっとおかしなものを書き入れてみた。
そうしたら、「ちょっと面白かった」というわけ。
静かな農村風景、それだけみたら、ミレーか誰かの絵のようなのに、
隅っこのほうをよく見てみると、逃げ出したガチョウが一羽。
なんだかおかしい。それがゾーヴァの言う、
「ドラマ性というか、とくにユーモア、それも背後に狂気を隠しているような笑い」
ゾーヴァが風刺画を描く重要なテーマなのです。
たしかに、緑濃い木々に囲まれた池の中に飛び込む豚、
「ケーラーの豚」には、おかしさを通り越して、なにかが狂っているような、
妙な感じがあります。
豚ばかりみたいですが、テーブルの上のスープ皿に、
まるで泥んこ遊びするみたいに、ちいさな豚がいる「スープ豚」もしかり。
誰もがよく見知っている日常の風景。
それが不思議な感覚をもたらすとき、そこにはなにか、おかしなことが起きている。
ゾーヴァの絵の中には、そんな、おかしいのだけど、少しだけ怖いようなものが、
ひそんでいる気がします。
かわいいだけじゃすまない、そんなゾーヴァの絵の魅力。いや、魔力かな。
挿画を手がけた、『ちいさなちいさな王様』や『日曜日はクマの名前』は、
ともに、アクセル・ハッセの作品に、絵をつけたもの。
かなり自由な発想で描かせてもらえたと、後者の本の中で説明しています。
アクセル・ハッセの作品自体が、風刺にもとれるけれど、
そのまま素直に読めば、楽しくて優しい物語。でも、やっぱりどこかおかしい。
そんな作風が、ゾーヴァの絵の作風とも合っているのだと思います。
ちいさな王様も“日曜日”という名前のクマのぬいぐるみも、
とってもかわいくて、いとおしいけれど、なんだかおかしい。
自分と同じくらいの大きさのグミベアーが大好物の王様、
パンツみたいに洗濯されて干されたことを嘆く“日曜日”、
ゾーヴァに描かれた彼らの姿には、どこか哀しいげな感じもあって、
よりいっそういとおしく感じます。
色彩とか、絵の質感も好きだなあ。
ゾーヴァは、『ミヒャエル・ゾーヴァの仕事』の最後に、こう言っています。
「絵を描く、それはなにも特別なことではないのだ。
生活の中で感じ、考えたものを表現する。すなわち、
それは僕が生きていることに他ならない。」
気に入らなかったり、失敗したと思ったら、
ゾーヴァは何度でも、その絵に上塗りして描き直していく。
生きていくこともそれと同じ。
描きなおせばいい、やりなおせばいい。
ゾーヴァの画家としての自然体の生き方が、そんなふうに言ってくれているよう。
心に染みます。


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